適当刊・伴幸一郎の一本勝負

日刊でも、週刊でも、月刊でもありません。「適当刊」です。気が向いた時に書きます。

服務の宣誓と入隊した頃

今日、同期の自衛官と再会しました。教育を終業して以来なので、約10年ぶりになりますね。この春に札幌へ異動になったそうで。
ちょっとお茶する時間があったので、某イオンの一角で昔話に花を咲かせました。連絡先を交換し、近日飯でもとふわりとした約束をしその場を後にしました。懐かしくなったので、昔話でも聞いてください。




「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。」

A4の1枚ペラの紙に縦書きにて書かれたこの書類。自衛官になる者はすべてがこの文書に署名・捺印させられる。一般企業で言うところの雇用契約書に似て非なる物である。私も署名し判捺いた一人である。
初めて見たときの率直な私の感想は「平和と独立の‘平和’が先に来るあたりは日本らしい」と思ったのと「事に臨んでは危険を顧みず」の一文に武者震いをしたのを覚えている。


教育隊に着隊して数日後。同室・同班の仲間と必死に階級章やら名札を縫い付ける作業をしていた。こればかりは得意な奴・不得意な奴がいて、得意な奴が不得意な奴をフォローする構図が既に出来ていた。ぶっちゃけ幸先の良いスタートと思った。詳しくはまた別な機会にするが、同室の6名の内5名は社会人経験があった。その内一人は結婚していた。
その日の午後くらい。教育分隊分隊長以下、分隊士・各班長が割とガチな表情をし始めたので、私を含めた数人の‘勘の良い’ガキ(18歳〜27歳)はその時が来たと思った。

教場の一室に分隊員が集められ(1班15名×4班=60人くらいいただろうか)、席に着くと、分隊長(確か2尉)が教壇に立ち文言一つ一つについて説明していった。小一時間も話しただろうか。「このまま入るなら署名・捺印しろと。ただし帰るなら今だぞ。今なら宣誓拒否して帰っただけだから、就職してない事に出来るぞ。入ってないんだから」と分隊長が言った。暫し考える者、即時にサインする者いたが結局、その場にいた全員がサインしたと思った。が、1人だけ宣誓拒否した者がいた。翌日には荷物をまとめて帰って行った。果たして奴は元気なのだろうか・・・。

その翌日の夕刻。アナウンスが流れた。作業中で聞き漏らしたが、私と数名の同期隊員の近くにいた分隊士(3尉・分隊のナンバー2)によると「お前らが自衛官として任官された瞬間やで」とニコリして言った。
しばらくして分隊員全員が集められ、分隊長が「本日、お前たちは任官された。(以下略)」と挨拶をした後、ある班長(3曹・潜水艦乗り)「この瞬間から、お前ら全員自衛官だ!一匹の自衛官として扱うから覚悟しろ!!..........返事が聞こえねぇんだよぉ」と地獄の始まり様な事を言った。確かに地獄の第一段階の始まりだった。あえて言うなら本当の地獄は入隊式の翌日からだった。さらに進化した地獄は、GW休暇を明けた頃だった。

正直、若干の後悔をした。人生選択間違えたかなと...。
確か、消灯後に同室の一人とトイレで会った。ヒソヒソと話をすると奴も同じことを思っていたようだ。その瞬間、妙な仲間意識が生まれたのは言うまでもない。

私が入隊した年は、高卒者4割、大卒者4割、社会人経験者とニートが2割の構成比だった。班長側からすると手を焼くのは社会人経験者かな(笑)と。前出の班長が「無駄に経験値があるから、‘塀’の中の習慣になじめないのよ」と教えてくれた。まあその班長はいろいろ良くしてくれた人の一人で、今でも年賀状と歳暮のやり取りはしている。なりたくもない幹部になられてさぞ苦労しているだろう。