適当刊・伴幸一郎の一本勝負

日刊でも、週刊でも、月刊でもありません。「適当刊」です。気が向いた時に書きます。

昔話。

先日、青森へ行った際の青函トンネルを疾走する新幹線の中で記しました。

久々のブログ記事にするには話が重いかとも思ったが、折角の機会だしそろそろオープンにしてもいいかなと思ったので文章にする(数名、知ってるフォロワーさんもいるが)。

2014年の初冬の事である。北海道でも有数の豪雪地帯に住んでいた。よく晴れたある日の事である。
何気ない会話をLINE越しに交わし私は仕事に出掛けた。それが最後のやり取りになるとも知らずに。

仕事中にやたらとスマホが鳴る。マナーモードにはしていたが、普通じゃない回数の着信がありと流石に何事かと思い、トイレに行くふりをして画面を見た。不在着信が10件以上。知らぬ番号。ただ住んでいるエリアの市外局番。私は出なかった。今更後悔しても遅いのだが、この時電話に出ておけばと今でも思う。

それから数時間。上席の二人が私の顔色を伺うかの如く、何度も行ったり来たりを繰り返す。当時は、サボってないか見に来たか程度で何も思わなかった。
しばらくして上席の一人が私をオフィスに呼び出した。『深呼吸してよく話を聞け』と前置きして上席は深呼吸した。淡々と、そして冷静に話し始めた。『◯◯さんな、事故って亡くなった』と。◯◯さんとは同じ職場に勤めていた当時の恋人である。
茫然自失。その瞬間日本語が理解出来ないのだ。この上席は何を言っているんだ?数分、無言の時間が流れた。よく晴れた少し寒い日だった。
『とりあえず病院に行ってこい』と言われてようやく事の重大さを理解した。私は直属上長に訳を話し、病院へ向かった。途中、警察車両とレッカー車が集まる現場があった。そこには紛れもない彼女の車が原型を留めずにあった。そこで事故った事実を突き付けられた。そこから病院までは20分少々。その20分が数時間にも感じられた。

病院に着き、霊安室へ案内された。まだ生暖かい彼女の遺体がそこにあった。手を握った。これが人間の体なのか?と思うほど重かった。私は泣くことも出来ず、ただひたすらに現実を受け止める事に必死だった。

当時、結婚も考えていた。彼女のご両親にも会った。今、病院に向かっている彼女のご両親と、どんな顔をして会えばいいものか。
私は彼女の指からそっと指輪を抜いた。ペアリング。その指輪をボーッと眺めていると彼女のご両親が到着した。お母様は霊安室に入るや号泣した。お父様は私に『ありがとう』と力無い声で言った。そして、事故について私に聞いた。私も詳しくは知らなかったが、自損事故だったこと、ほぼ即死だったことを話した。

続きは後日。

うつ病記録.1

春が足踏みをしている札幌。
2年前の春は、絶望のドン底にいた様に思います。

2016年12月。出先で倒れて入院。退院後、そのまま右から左へ受け流す如く精神科へ。と当事者の私が理解不能な状況で物事が進んで言った。

実際に2年前(2016.12)に受診した際の診断書。
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抑うつ状態。3ヶ月の療養。
これが3ヶ月後の診断書では「#心的外傷後ストレス障害 #メランコリー型うつ病・中等症」となっていた。「さらに3ヶ月程度療養を要する」と記してあった。

今思えば数ヵ月前から自覚症状的なものはあったと思う。

実際のところは療養期間の2017年1~3月が最も調子が悪かった。思考回路なんて働いちゃいない。まず起きれない。起き上がり、朝食を取るまでがすでに一仕事である。
高いところに立てば地面に吸われそうな感覚に陥り、駅のホームに立てば列車が侵入直前の線路に吸われそうになり。今思えばよく生きていたもんだ。


今、2019年現在も主治医の元、治療は継続している。調子のいい日・悪い日はあるものの、服薬などで日常生活を送れる程度には、病状をコントロールする事ができている。


折角なので記録に残そうと思い、記事にしてみた。すでに公表はしているので、大きなデメリットはない。誰かの参考になればと思う。